教会とは退屈な世界である。唯一の娯楽と言えば神父の悪口か?

 

このため、どうやったら誹謗中傷を受けても微笑んでいられるかが神父の適正ではないかと。

そこまでは構わないのだけど、それを信者に押し付けるのをやめてほしい。こちらは嫌いな人は嫌いだし、犯罪者は犯罪者だと感じてしまう。献金泥棒を警察に訴えないのは、一度教会に献金したものは教会のものだし、経済観念のない神父が勝手に誰かに寄付したと思ったら別に泥棒に追い銭みたいなもので、金額の大小に過ぎない。

 

一番面倒なのは、原発のことを司教に尋ねるのをやめてほしいと思っている。

うちの教会は科学の都市らしく科学者が多い。中には実際に原子力の研究をしていて、そこに勤めている人たちもいる。

教会には科学者もたくさんいるのである。

原発で働く人の中にもカトリック信者はいるだろう。

もちろん原発被害者の中にも。

 

カトリックの退屈なところは、A年B年C年という具合に、ミサでの朗読箇所が決められており、神父のミサ説教の内容ですら、3年分準備しておけば足りる気がするほどだ。

実際、自由はことを言えないのがカトリックであり、たいていはパパ様がその年のテーマを発表するので、それに即した形で行事や宣教活動が決められる。

 

去年は、聖年といって罪がゆるされる年で、巡礼ブームでカトリックの聖地の巡礼ツアーが盛んだった。今年は福音宣教がテーマらしくて、若い人たちを教会に呼ぼうとしたり、若者と一緒に巡礼に出かけようとしたり、福音宣教というと若者がターゲットらしい。

 

そうやって常にテーマやブームを感じながら信者をやっている。それがカトリック信者の共通意識になる気がする。そうやって信者の共通意識を通しながら信仰の分かち合いの中に組織が形成される。

 

だけど、その外側では、原発の研究する人たちがいて、原発で働く人たちがいて、原発の被害者がいる。

仲良くやるためには、教会へ行かないか、そういう話をしないか、忘れているかに限る。

だから、仲良くやるためには、原発の話を司教にしないように誰か伝えてほしい。

 

サムエル上  5. 6-12